西久大運輸倉庫株式会社の
100年間のあゆみ
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1917
1.通運業から出発1917-1963
当社の前身・筑軌運輸株式会社は、大正6年8月20日、福岡県浮羽郡吉井町に本社を構えた筑後運輸株式会社の通運業を目的に創設されました。
筑後軌道は、吉井町を起点に久留米~日田を結ぶ、県下で最大規模のローカル鉄道会社でしたが、昭和4年3月、鉄道の国有化を進める国に 買収されました。親会社を失った筑軌運輸の営業全権を委ねられた彌永支配人は、本社を吉井町に移し、日田駅以西の久大線各駅の指定運送取扱人の免許を順次取得して、業域を広げていきました。昭和8年、第4代社長に就任した彌永忠太は、荷馬車や荷車に代わるトラックの導入に力を入れ、運搬手段の近代化を進めました。
西久大運送株式会社に社名を変更した昭和14年以降、迫り来る戦時統合を間一髪のところで終戦によって免れました。戦後は、いち早く自動車の導入を図ってきたのが奏功し、筑後川上流のダム建設の資材運搬など戦後の復興に貢献してきました。高度成長期のモータリゼーションと供に進展する道路整備を見て、トラック運送に軸足を移しました。昭和35年に福岡市に進出しました。
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1964
2.そして、総合物流へ1964-1996
初の倉庫を福岡市中央区那の津に建設したのは、東京オリンピック直後の昭和39年です。延750坪の倉庫で、2年後に倉庫業法による営業許可を取得し、倉庫業に乗り出しました。
第5代社長に就任した彌永清は、国鉄貨物駅の統廃合の流れをうけ通運業から倉庫を核とする物流業へと体質強化を図り、昭和49年、九州自動車道福岡インター近くの福岡流通センターに約1万平方メートルに増やしました。
倉庫業も「量から質」の時代となり、倉庫の機械化・OA化に力を入れました。一方、商品の保管管理から仕分け・物流加工・梱包などお客様の多様なニーズに対応する総合物流業へと転換を加速しました。
社内報を創刊し、無事故の優良ドライバーの表彰、永年勤続者夫妻の海外・国内旅行、長時間勤務の改善、働きやすい職場環境の整備を進め社員の福利厚生にも力を注ぎました。
また、彌永社長が私財を投じ、ユーモラスなわらべじぞう尊をはじめ羅漢、菩薩像など数百体の仏像が並ぶ屋部地蔵公園を造園、地域に開放しています。
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1997
3.新たな時代を拓く1997->
平成9年4月に就任した彌永忠・第6代社長は、営業車両の「積載率100%」という夢の実現を目指しました。
商社、ソフト開発会社と共同開発したのが、全国初となる「総合物流システム」。GPSとデジタルタコグラフ、コンピュータを組み合わせたシステムです。一方、国鉄の民営化で誕生したJR貨物による通運業は、エコロジーの面から再認識されるようになりました。そこでJR貨物は、着発線荷役(E&S)方式を取り入れた貨物駅を整備し、コンテナ貨物の荷役のスピード化を図りました。当社は、福岡貨物ターミナル駅をはじめ北九州貨物ターミナル駅、鳥栖貨物ターミナル駅、相模貨物駅、横浜羽沢駅、熊本貨物ターミナル駅に通運事業の拠点を順次開設してきました。
急ぎの貨物、長尺貨物はトラックが優れています。しかし、長距離を一人のドライバーに委ねるのはコンプライアンスの面で問題が起きます。
そこで、平成27年から開始したのが「リレー・ザ・ネットラック」。駅伝競走のようにドライバーが中継地点で入れ替わって、トラックを長距離走らせるというもので、当社独自のアイデアです。物流倉庫では、お客様のニーズに応え危険物倉庫をはじめ穀物貯蔵に適した定温倉庫などを充実させました。中継拠点を拡充して
「リレー・ザ・ネットラック」の多様なコースとJR貨物を使い分けることで、一層の業績拡大を図っています。